2008年11月13日木曜日

八の二

 代助は斯《か》う云ふ考で、新聞記事に対しては別に驚ろきもしなかつた。父《ちゝ》と兄《あに》の会社に就ても心配をする程正直ではなかつた。たゞ三千代の事丈が多少気に掛つた。けれども、徒手《てぶら》で行くのが面白くないんで、其うちの事と腹《はら》の中《なか》で料簡を定《さだ》めて、日々《にち/\》読書に耽つて四五日|過《すご》した。不思議な事に其後《そのご》例の金《かね》の件に就いては、平岡からも三千代からも何とも云つて来《こ》なかつた。代助は心《こゝろ》のうちに、あるひは三千代が又|一人《ひとり》で返事を聞《き》きに来《く》る事もあるだらうと、実《じつ》は心待《こゝろまち》に待つてゐたのだが、其甲斐はなかつた。
 仕舞にアンニユイを感じ出《だ》した。何処《どこ》か遊びに行く所はあるまいかと、娯楽案内を捜《さが》して、芝居でも見やうと云ふ気を起した。神楽坂から外濠《そとぼり》線へ乗つて、御茶の水《みづ》迄|来《く》るうちに気が変《かは》つて、森川丁にゐる寺尾といふ同窓の友達を尋ねる事にした。此男は学校を出ると、教師は厭《いや》だから文学を職業とすると云ひ出して、他《ほか》のものゝ留めるにも拘らず、危険な商買をやり始めた。やり始めてから三年になるが、未だに名声も上《あが》らず、窮々《きう/\》云つて原稿生活を持続してゐる。自分の関係のある雑誌に、何《なん》でも好《い》いから書けと逼《せま》るので、代助は一度面白いものを寄草した事がある。それは一ヶ月の間雑誌屋の店頭に曝《さら》されたぎり、永久人間世界から何処《どこ》かへ、運命の為めに持つて行かれて仕舞つた。それぎり代助は筆を執る事を御免蒙つた。寺尾は逢ふたんびに、もつと書け書けと勧める。さうして、己《おれ》を見ろと云ふのが口癖《くちくせ》であつた。けれども外《ほか》の人《ひと》に聞《き》くと、寺尾ももう陥落《かんらく》するだらうと云ふ評判であつた。大変露西亜ものが好《すき》で、ことに人が名前を知らない作家が好《すき》で、なけなしの銭《ぜに》を工面しては新刊|物《もの》を買ふのが道楽であつた。あまり気焔が高かつた時、代助が、文学者も恐露病に罹つてるうちはまだ駄目だ。一旦日露戦争を経過したものでないと話せないと冷評《ひやかし》返した事がある。すると寺尾は真面目《まじめ》な顔《かほ》をして、戦争は何時《いつ》でもするが、日露戦争後の日本の様に往生しちや詰《つま》らんぢやないか。矢っ張り恐露病に罹つてる方が、卑怯でも安全だ、と答へて矢っ張り露西亜文学を鼓吹してゐた。
 玄関から座敷へ通つて見ると、寺尾は真中《まんなか》へ一貫|張《ばり》の机を据ゑて、頭痛がすると云つて鉢巻《はちまき》をして、腕まくりで、帝国文学の原稿を書《か》いてゐた。邪魔ならまた来《く》ると云ふと、帰らんでもいゝ、もう今朝《けさ》から五五《ごご》、二円五十銭丈|稼《かせ》いだからと云ふ挨拶であつた。やがて鉢巻《はちまき》を外《はづ》して、話《はなし》を始《はじ》めた。始めるが早いか、今の日本の作家と評家を眼の玉の飛び出る程痛快に罵倒し始めた。代助はそれを面白く聞いてゐた。然し腹の中では、寺尾の事を誰《だれ》も賞《ほ》めないので、其対抗運動として、自分の方では他《ひと》を貶《けな》すんだらうと思つた。ちと、左様《さう》云ふ意見を発表したら好《い》いぢやないかと勧めると、左様《さう》は行《い》かないよと笑つてゐる。何故《なぜ》と聞き返しても答へない。しばらくして、そりや君の様に気楽に暮《くら》せる身分なら随分云つて見せるが――何《なに》しろ食《く》ふんだからね。どうせ真面目《まじめ》な商買ぢやないさ。と云つた。代助は、夫《それ》で結構だ、確《しつ》かり遣《や》り玉へと奨励した。すると寺尾は、いや些《ちつ》とも結構ぢやない。どうかして、真面目《まじめ》になりたいと思つてゐる。どうだ、君ちつと金《かね》を借《か》して僕を真面目《まじめ》にする了見はないかと聞《き》いた。いや、君が今の様な事をして、夫《それ》で真面目《まじめ》だと思ふ様になつたら、其時借してやらうと調戯《からか》つて、代助は表へ出《で》た。
 本郷の通り迄|来《き》たが惓怠《アンニユイ》の感は依然として故《もと》の通りである。何処《どこ》をどう歩《ある》いても物足りない。と云つて、人《ひと》の宅《うち》を訪《たづ》ねる気はもう出《で》ない。自分を検査して見ると、身体《からだ》全体が、大きな胃病の様な心持がした。四丁目から又電車へ乗《の》つて、今度は伝通院前迄|来《き》た。車中で揺《ゆ》られるたびに、五尺何寸かある大きな胃|嚢《ぶくろ》の中《なか》で、腐《くさ》つたものが、波《なみ》を打つ感じがあつた。三時過ぎにぼんやり宅《うち》へ帰《かへ》つた。玄関で門野が、
「先刻《さつき》御|宅《たく》から御使《おつかい》でした。手紙は書斎の机の上《うへ》に載せて置きました。受取は一寸《ちよつと》私《わたくし》が書《か》いて渡《わた》して置《お》きました」と云つた。

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