2008年11月13日木曜日

七の四

 それから三十分程の間《あひだ》、母子《おやこ》して交《かは》る/″\楽器の前に坐《すは》つては、一つ所《ところ》を復習してゐたが、やがて梅子が、
「もう廃《よ》しませう。彼方《あつち》へ行《い》つて、御飯《ごはん》でも食《たべ》ませう。叔父《おぢ》さんもゐらつしやい」と云ひながら立つた。部屋のなかはもう薄暗《うすぐら》くなつてゐた。代助は先刻《さつき》から、ピヤノの音《おと》を聞いて、嫂《あによめ》や姪《めい》の白い手の動《うご》く様子を見て、さうして時々《とき/″\》は例の欄間《らんま》の画《ゑ》を眺《なが》めて、三千代《みちよ》の事も、金《かね》を借《か》りる事も殆んど忘れてゐた。部屋を出《で》る時、振り返つたら、紺青《こんじやう》の波《なみ》が摧《くだ》けて、白く吹き返《かへ》す所|丈《だけ》が、暗《くら》い中《なか》に判然《はつきり》見えた。代助は此|大濤《おほなみ》の上《うへ》に黄金色《こがねいろ》の雲《くも》の峰《みね》を一面に描《か》かした。さうして、其|雲《くも》の峰《みね》をよく見ると、真裸《まはだか》な女性《によせう》の巨人《きよじん》が、髪《かみ》を乱《みだ》し、身を躍《おど》らして、一団となつて、暴《あ》れ狂つてゐる様《やう》に、旨《うま》く輪廓を取《と》らした。代助は※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ルキイルを雲《くも》に見立てた積で此図を注文したのである。彼は此|雲《くも》の峰だか、又巨大な女性だか、殆んど見分けの付《つ》かない、偉《い》な塊《かたまり》を脳中《のうちう》に髣髴《ほうふつ》して、ひそかに嬉《うれ》しがつてゐた。が偖出来|上《あが》つて、壁《かべ》の中《なか》へ嵌《は》め込んでみると、想像したよりは不味《まづ》かつた。梅子と共に部屋を出《で》た時《とき》は、此※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ルキイルは殆んど見えなかつた。紺青《こんじやう》の波は固より見えなかつた。たゞ白い泡《あは》の大きな塊《かたまり》が薄白《うすじろ》く見えた。
 居間《ゐま》にはもう電燈が点《つ》いてゐた。代助は其所《そこ》で、梅子と共に晩食《ばんしよく》を済《す》ました。子供|二人《ふたり》も卓《たく》を共にした。誠太郎に兄《あに》の部室《へや》からマニラを一本|取《と》つて来《こ》さして、夫《それ》を吹《ふ》かしながら、雑談をした。やがて、小供《こども》は明日《あした》の下読《したよみ》をする時間だと云ふので、母《はゝ》から注意を受けて、自分の部屋《へや》へ引き取《と》つたので、後《あと》は差し向《むかひ》になつた。
 代助は突然例の話《はなし》を持《も》ち出すのも、変なものだと思つて、関係のない所からそろ/\進行を始めた。先づ父《ちゝ》と兄《あに》が綱曳《つなつぴき》で車《くるま》を急《いそ》がして何所《どこ》へ行つたのだとか、此間《このあひだ》は兄《にい》さんに御馳走になつたとか、あなたは何故《なぜ》麻布の園遊会へ来《こ》なかつたのだとか、御父《おとう》さんの漢詩は大抵|法螺《ほら》だとか、色々《いろいろ》聞いたり答へたりして居《ゐ》るうちに、一つ新しい事実を発見した。それは外《ほか》でもない。父《ちゝ》と兄《あに》が、近来目に立《た》つ様に、忙《いそが》しさうに奔走し始めて、此四五日は碌々《ろく/\》寐《ね》るひまもない位だと云ふ報知である。全体何が始《はじま》つたんですと、代助は平気な顔《かほ》で聞いて見た。すると、嫂《あによめ》も普通の調子で、さうですね、何《なに》か始《はじま》つたんでせう。御父《おとう》さんも、兄《にい》さんも私《わたくし》には何《なん》にも仰《おつ》しやらないから、知《し》らないけれどもと答へて、代さんは、それよりか此間《このあひだ》の御嫁《およめ》さんをと云ひ掛けてゐる所へ、書生が這入つて来《き》た。
 今夜《こんや》も遅《おそ》くなる、もし、誰《だれ》と誰《だれ》が来《き》たら何《なん》とか屋《や》へ来《く》る様に云つて呉れと云ふ電話を伝《つた》へた儘、書生は再び出《で》て行《い》つた。代助は又結婚問題に話《はなし》が戻《もど》ると面倒だから、時に姉《ねえ》さん、些《ちつと》御|願《ねがひ》があつて来《き》たんだが、とすぐ切り出して仕舞つた。
 梅子《うめこ》は代助の云ふ事を素直《すなほ》に聞《き》いて居《ゐ》た。代助は凡てを話すに約十分許を費《つい》やした。最後に、
「だから思ひ切つて貸して下《くだ》さい」と云つた。すると梅子は真面目《まじめ》な顔をして、
「さうね。けれども全体|何時《いつ》返《かへ》す気なの」と思ひも寄《よ》らぬ事を問ひ返した。代助は顎《あご》の先《さき》を指《ゆび》で撮《つま》んだ儘、じつと嫂《あによめ》の気色《けしき》を窺《うかゞ》つた。梅子《うめこ》は益|真面目《まじめ》な顔《かほ》をして、又斯う云つた。
「皮肉ぢやないのよ。怒《おこ》つちや不可《いけ》ませんよ」
 代助は無論|怒《おこ》つてはゐなかつた。たゞ姉弟《けうだい》から斯《か》ういふ質問を受けやうと予期してゐなかつた丈である。今更|返《かへ》す気《き》だの、貰《もら》う積りだのと布衍《ふえん》すればする程馬鹿になる許《ばかり》だから、甘《あま》んじて打撃を受けてゐた丈である。梅子は漸やく手に余る弟を取つて抑えた様な気がしたので、後《あと》が大変云ひ易《やす》かつた。――

0 件のコメント: