翌日《あくるひ》は又|燬《や》け付く様に日《ひ》が高く出《で》た。外《そと》は猛烈な光《ひかり》で一面にいら/\し始めた。代助は我慢して八時|過《すぎ》に漸く起きた。起きるや否や眼《め》がぐらついた。平生の如く水《みづ》を浴《あ》びて、書斎へ這入《はい》つて凝《じつ》と竦《すく》んだ。
所へ門野《かどの》が来《き》て、御客さまですと知《し》らせたなり、入口《いりぐち》に立《た》つて、驚ろいた様に代助を見た。代助は返事をするのも退儀であつた。客は誰だと聞き返しもせずに手で支へた儘の顔《かほ》を、半分ばかり門野《かどの》の方へ向き易《か》へた。其時《そのとき》客の足音《あしおと》が椽側にして、案内も待《ま》たずに兄《あに》の誠吾が這入つて来《き》た。
「やあ、此方《こつち》へ」と席を勧めたのが代助にはやうやうであつた。誠吾は席に着《つ》くや否や、扇子を出して、上布《じやうふ》の襟《えり》を開《ひら》く様に、風《かぜ》を送つた。此暑さに脂肪《しぼう》が焼《や》けて苦しいと見えて、荒い息遣《いきづかひ》をした。
「暑《あつ》いな」と云つた。
「御宅《おたく》でも別に御変りもありませんか」と代助は、左《さ》も疲《つか》れ果《は》てた人《ひと》の如くに尋《たづ》ねた。
二人《ふたり》は少時《しばらく》例の通りの世間話《せけんばなし》をした。代助の調子態度は固より尋常ではなかつた。けれども兄《あに》は決して何《ど》うしたとも聞《き》かなかつた。話《はなし》の切《き》れ目《め》へ来《き》た時、
「今日《けふ》は実《じつ》は」と云ひながら、懐《ふところ》へ手を入れて、一通の手紙を取り出した。
「実《じつ》は御|前《まへ》に少し聞《き》きたい事があつて来《き》たんだがね」と封筒の裏《うら》を代助の方へ向けて、
「此男を知つてるかい」と聞いた。其所《そこ》には平岡の宿所姓名が自筆で書いてあつた。
「知つてます」と代助は殆んど器械的に答へた。
「元《もと》、御前《おまへ》の同級生だつて云ふが、本当か」
「さうです」
「此男の細君も知つてるのかい」
「知つてゐます」
兄《あに》は又扇を取り上《あ》げて、二三度ぱち/\と鳴らした。それから、少し前へ乗り出す様に、声を一段|落《おと》した。
「此男の細君と、御前《おまへ》が何か関係があるのかい」
代助は始めから万事を隠す気はなかつた。けれども斯う単簡に聞かれたときに、何《ど》うして此複雑な経過を、一言《いちげん》で答へ得るだらうと思ふと、返事は容易に口《くち》へは出《で》なかつた。兄《あに》は封筒の中《なか》から、手紙を取《と》り出《だ》した。それを四五寸ばかり捲《ま》き返《かへ》して、
「実《じつ》は平岡と云ふ人が、斯《か》う云ふ手紙を御父《おとう》さんの所へ宛《あて》ゝ寄《よ》こしたんだがね。――読《よ》んで見るか」と云つて、代助に渡《わた》した。代助は黙《だま》つて手紙を受取つて、読《よ》み始めた。兄《あに》は凝《じつ》と代助の額《ひたひ》の所を見詰めてゐた。
手紙は細《こま》かい字で書《か》いてあつた。一行二行と読むうちに、読み終つた分《ぶん》が、代助の手先《てさき》から長く垂《た》れた。それが二尺|余《あまり》になつても、まだ尽きる気色はなかつた。代助の眼《め》はちらちらした。頭《あたま》が鉄《てつ》の様に重《おも》かつた。代助は強いても仕舞《しまひ》迄読み通さなければならないと考へた。総身《さうしん》が名状しがたい圧迫を受けて、腋《わき》の下《した》から汗《あせ》が流れた。漸く結末へ来《き》た時は、手に持つた手紙を巻《ま》き納《おさ》める勇気もなかつた。手紙は広《ひろ》げられた儘|洋卓《てえぶる》の上《うへ》に横《よこた》はつた。
「其所《そこ》に書《か》いてある事は本当なのかい」と兄《あに》が低い声で聞《き》いた。代助はたゞ、
「本当です」と答へた。兄《あに》は打衝を受けた人の様に一寸《ちよつと》扇の音《おと》を留《とゞ》めた。しばらくは二人《ふたり》とも口《くち》を聞《き》き得なかつた。良《やゝ》あつて兄《あに》が、
「まあ、何《ど》う云ふ了見で、そんな馬鹿な事をしたのだ」と呆《あき》れた調子で云つた。代助は依然として、口《くち》を開《ひら》かなかつた。
「何《ど》んな女だつて、貰《もら》はうと思へば、いくらでも貰《もら》へるぢやないか」と兄がまた云つた。代助はそれでも猶黙つてゐた。三度目に兄《あに》が斯う云つた。――
「御前《おまへ》だつて満更《まんざら》道楽をした事のない人間でもあるまい。こんな不始末を仕出《しで》かす位なら、今迄折角|金《かね》を使つた甲斐がないぢやないか」
代助は今更|兄《あに》に向つて、自分の立場《たちば》を説明する勇気もなかつた。彼《かれ》はつい此間《このあひだ》迄全く兄《あに》と同意見であつたのである。
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