2008年11月12日水曜日

十六の四

 一仕切《ひとしきり》経《た》つと、発作《ほつさ》は次第に収《おさ》まつた。後《あと》は例《いつも》の通り静《しづ》かな、しとやかな、奥行《おくゆき》のある、美《うつ》くしい女になつた。眉のあたりが殊に晴《はれ》/″\しく見えた。其時代助は、
「僕が自分で平岡君に逢つて解決を付《つ》けても宜《よ》う御座《ござ》んすか」と聞《き》いた。
「そんな事が出来て」と三千代は驚ろいた様であつた。代助は、
「出来る積《つもり》です」と確《しつか》り答へた。
「ぢや、何《ど》うでも」と三千代が云つた。
「さうしませう。二人《ふたり》が平岡君を欺《あざむ》いて事をするのは可《よ》くない様だ。無論事実を能く納得|出来《でき》る様に話《はな》す丈です。さうして、僕の悪《わる》い所はちやんと詫《あや》まる覚悟です。其結果は僕の思ふ様に行《い》かないかも知れない。けれども何《ど》う間違《まちが》つたつて、そんな無暗な事は起らない様にする積《つもり》です。斯《か》う中途半端《ちうとはんぱ》にしてゐては、御互も苦痛だし、平岡君に対しても悪《わる》い。たゞ僕が思ひ切つて左様《さう》すると、あなたが、嘸《さぞ》平岡君に面目なからうと思つてね。其所《そこ》が御気の毒なんだが、然し面目ないと云へば、僕だつて面目ないんだから。自分の所為に対しては、如何に面目なくつても、徳義上の責任を負ふのが当然だとすれば、外《ほか》に何等の利益がないとしても、御互の間に有《あつ》た事丈は平岡君に話さなければならないでせう。其上今の場合では是からの所置を付《つ》ける大事の自白なんだから、猶更必要になると思ひます」
「能く解《わか》りましたわ。何《ど》うせ間違《まちが》へば死ぬ積なんですから」
「死ぬなんて。――よし死ぬにしたつて、是から先《さき》何《ど》の位《くらゐ》間《あひだ》があるか――又そんな危険がある位なら、なんで平岡君に僕から話すもんですか」
 三千代は又泣き出《だ》した。
「ぢや能《よ》く詫《あやま》ります」
 代助は日《ひ》の傾くのを待《ま》つて三千代を帰《かへ》した。然し此前の時の様に送《おく》つては行《い》かなかつた。一時間程書斎の中で蝉の声を聞《き》いて暮《くら》した。三千代に逢つて自分の未来を打ち明けてから、気分が薩張りした。平岡へ手紙を書《か》いて、会見の都合を聞き合せ様として、筆を持つて見たが、急に責任の重いのが苦になつて、拝啓以後を書き続《つゞ》ける勇気が出なかつた。卒然、襯衣《しやつ》一枚になつて素足で庭へ飛《と》び出《だ》した。三千代が帰る時は正体なく午睡《ひるね》をしてゐた門野《かどの》が、
「まだ早いぢやありませんか。日が当つてゐますぜ」と云ひながら、坊主|頭《あたま》を両手で抑えて椽端にあらはれた。代助は返事もせずに、庭の隅へ潜《もぐ》り込んで竹の落葉《おちば》を前の方へ掃き出《だ》した。門野《かどの》も已を得ず着物《きもの》を脱《ぬ》いで下《お》りて来《き》た。
 狭い庭だけれども、土《つち》が乾《かは》いてゐるので、たつぷり濡らすには大分《だいぶん》骨が折れた。代助は腕《うで》が痛《いた》いと云つて、好加減《いゝかげん》にして足を拭《ふ》いて上《あが》つた。烟草《たばこ》を吹《ふ》いて、椽側に休んでゐると、門野が其姿を見《み》て、
「先生心臓の鼓動が少々|狂《くる》やしませんか」と下《した》から調戯《からか》つた。
 晩には門野《かどの》を連《つ》れて、神楽坂の縁日へ出《で》掛けて、秋草《あきくさ》を二鉢三鉢買つて来《き》て、露《つゆ》の下《お》りる軒《のき》の外《そと》へ並《なら》べて置《お》いた。夜は深く空《そら》は高《たか》かつた。星の色《いろ》は濃《こ》く繁《しげ》く光《ひか》つた。
 代助は其晩わざと雨戸《あまど》を引《ひ》かずに寐《ね》た。無《ぶ》用心と云ふ恐れが彼《かれ》の頭《あたま》には全く無《な》かつた。彼は洋燈《ランプ》を消《け》して、蚊帳《かや》の中《なか》に独《ひと》り寐転《ねころ》びながら、暗《くら》い所から暗い空《そら》を透《す》かして見た。頭《あたま》の中《なか》には昼《ひる》の事が鮮《あざや》かに輝《かゞや》いた。もう二三|日《にち》のうちには最後の解決が出来《でき》ると思つて幾|度《たび》か胸《むね》を躍《おど》らせた。が、そのうち大《おほ》いなる空《そら》と、大いなる夢《ゆめ》のうちに、吾知らず吸収された。
 翌日の朝《あさ》彼は思ひ切つて平岡へ手紙を出《だ》した。たゞ、内々で少し話したい事があるが、君の都合を知らせて貰《もら》ひたい。此方《こつち》は何時《いつ》でも差支ない。と書いた丈だが、彼《かれ》はわざとそれを封書にした。状袋の糊《のり》を湿《し》めして、赤い切手をとんと張《は》つた時には、愈クライシスに証券を与へた様な気がした。彼は門野《かどの》に云ひ付けて、此運命の使《つかひ》を郵便|函《ばこ》に投《な》げ込ました。手|渡《わた》しにする時、少し手先が顫《ふる》へたが、渡したあとでは却つて茫然として自失した。三年前三千代と平岡の間《あひだ》に立《た》つて斡旋《あつせん》の労を取つた事を追想すると丸で夢の様であつた。

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