2008年11月12日水曜日

十六の五

 翌日《よくじつ》は平岡の返事を心待《こゝろまち》に待《ま》ち暮《く》らした。其|明《あく》る日も当《あて》にして終日《しうじつ》宅《うち》にゐた。三日《みつか》四日《よつか》と経《た》つた。が、平《ひら》岡からは何の便《たより》もなかつた。其中《そのうち》例月《れいげつ》の通り、青山《あをやま》へ金《かね》を貰《もら》ひに行くべき日《ひ》が来《き》た。代助の懐中《くわいちう》は甚だ手薄《てうす》になつた。代助は此前|父《ちゝ》に逢《あ》つた時以後、もう宅《うち》からは補助を受けられないものと覚悟を極《き》めてゐた。今更平気な顔《かほ》をして、のそ/\出掛《でかけ》て行く了見は丸でなかつた。何《なに》二ヶ月や三ヶ月は、書物か衣類を売り払つても何《ど》うかなると腹《はら》の中《なか》で高《たか》を括《くゝ》つて落ち付《つ》いてゐた。事《こと》の落着次第|緩《ゆつ》くり職業を探《さが》すと云ふ分別もあつた。彼《かれ》は平生から人《ひと》のよく口癖《くちくせ》にする、人間は容易な事《こと》で餓死するものぢやない、何《ど》うにかなつて行くものだと云ふ半諺《はんことわざ》の真理を、経験しない前から信《しん》じ出《だ》した。
 五日《いつか》目に暑《あつさ》を冒《おか》して、電車へ乗《の》つて、平岡の社迄|出掛《でか》けて行つて見て、平岡は二三日出社しないと云ふ事が分《わか》つた。代助は表へ出て薄汚《うすぎた》ない編輯局の窓を見上《みあ》げながら、足《あし》を運ぶ前に、一応電話で聞き合《あは》すべき筈だつたと思つた。先達ての手紙は、果して平岡の手に渡つたかどうか、夫《それ》さへ疑《うたが》はしくなつた。代助はわざと新聞社宛でそれを出《だ》したからである。帰りに神田へ廻《まは》つて、買ひつけの古本《ふるほん》屋に、売払ひたい不用の書物があるから、見《み》に来《き》てくれろと頼《たの》んだ。
 其|晩《ばん》は水《みづ》を打《う》つ勇気も失《う》せて、ぼんやり、白い網襯衣《あみしやつ》を着《き》た門野の姿《すがた》を眺《なが》めてゐた。
「先生|今日《けふ》は御疲《おつかれ》ですか」と門野《かどの》が馬尻《ばけつ》を鳴らしながら云つた。代助の胸は不安《ふあん》に圧《お》されて、明《あき》らかな返事も出《で》なかつた。夕食《ゆふめし》のとき、飯《めし》の味《あぢ》は殆んどなかつた。呑《の》み込む様に咽喉《のど》を通《とほ》して、箸《はし》を投《な》げた。門野《かどの》を呼んで、
「君、平岡の所へ行つてね、先達《せんだつ》ての手紙は御覧になりましたか。御覧になつたら、御返事を願ひますつて、返事を聞いて来《き》て呉れ玉へ」と頼《たの》んだ。猶要領を得ぬ恐《おそれ》がありさうなので、先達てこれ/\の手紙を新聞社の方へ出して置いたのだと云ふ事迄説明して聞《き》かした。
 門野《かどの》を出《だ》した後《あと》で、代助は椽側に出《で》て、椅子に腰を掛《か》けた。門野《かどの》の帰つた時は、洋燈《ランプ》を吹《ふ》き消《け》して、暗《くら》い中《なか》に凝《じつ》としてゐた。門野《かどの》は暗《くら》がりで、
「行《い》つて参りました」と挨拶をした。「平岡さんは御居《おゐ》でゞした。手紙は御覧になつたさうです。明日《あした》の朝《あさ》行《い》くからといふ事です」
「左様《さう》かい、御苦労さま」と代助は答へた。
「実《じつ》はもつと早く出《で》るんだつたが、うちに病人が出来たんで遅《おそ》くなつたから、宜《よろ》しく云つてくれろと云はれました」
「病人?」と代助は思はず問《と》ひ返《かへ》した。門野《かどの》は暗《くら》い中《なか》で、
「えゝ、何でも奥さんが御悪《おわる》い様です」と答へた。門野の着《き》てゐる白地の浴衣《ゆかた》丈がぼんやり代助の眼《め》に入《い》つた。夜《よる》の明《あか》りは二人《ふたり》の顔を照らすには余り不充分であつた。代助は掛《か》けてゐる籐《と》椅子の肱掛《ひぢかけ》を両手で握《にぎ》つた。
「余程|悪《わる》いのか」と強く聞いた。
「何《ど》うですか、能く分《わか》りませんが。何《なん》でもさう軽《かる》さうでもない様でした。然し平岡さんが明日《あした》御出《おいで》になられる位なんだから、大《たい》した事《こと》ぢやないでせう」
 代助は少し安心した。
「何だい。病気は」
「つい聞《き》き落《おと》しましたがな」
 二人《ふたり》の問答は夫《それ》で絶《た》えた。門野《かどの》は暗《くら》い廊下を引き返して、自分の部屋へ這入つた。静《しづ》かに聞いてゐると、しばらくして、洋燈《ランプ》の蓋《かさ》をホヤに打《ぶ》つける音《おと》がした。門野は灯火《あかり》を点《つ》けたと見えた。
 代助は夜《よ》の中《なか》に猶|凝《じつ》としてゐた。凝《じつ》としてゐながら、胸《むね》がわく/\した。握《にぎ》つてゐる肱掛《ひぢかけ》に、手から膏《あぶら》が出《で》た。代助は又手を鳴らして門野を呼び出した。門野《かどの》のぼんやりした白地《しろぢ》が又廊下のはづれに現《あら》はれた。
「まだ暗闇《くらやみ》ですな。洋燈《ランプ》を点《つ》けますか」と聞いた。代助は洋燈《ランプ》を断《ことわ》つて、もう一度《いちど》、三千代の病気を尋ねた。看護婦の有無やら、平岡の様子やら、新聞社を休んだのは、細君の病気の為《ため》だか、何《ど》うだか、と云ふ点に至る迄、考へられる丈問ひ尽した。けれども門野の答は必竟前と同じ事を繰り返すのみであつた。でなければ、好加減な当《あて》ずつぽうに過ぎなかつた。それでも、代助には一人《ひとり》で黙つてゐるよりも堪《こら》え易《やす》かつた。

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