「ぢや」と平岡は稍声を高めた。「ぢや、僕等|二人《ふたり》は世間の掟《おきて》に叶《かな》ふ様な夫婦関係は結《むす》べないと云ふ意見だね」
代助は同情のある気の毒さうな眼《め》をして平岡を見た。平岡の険《けわ》しい眉が少し解けた。
「平岡君。世間《せけん》から云へば、これは男子の面目に関《かゝ》はる大事件だ。だから君が自己の権利を維持する為《ため》に、――故意に維持しやうと思はないでも、暗に其心が働らいて、自然と激して来《く》るのは已を得ないが、――けれども、こんな関係の起らない学校時代の君になつて、もう一遍僕の云ふ事をよく聞いて呉れないか」
平岡は何とも云はなかつた。代助も一寸|控《ひか》えてゐた。烟草を一吹《ひとふき》吹《ふ》いた後《あと》で、思ひ切つた。
「君は三千代さんを愛してゐなかつた」と静《しづ》かに云つた。
「そりや」
「そりや余計な事だけれども、僕は云はなければならない。今度の事件に就て凡ての解決者はそれだらうと思ふ」
「君には責任がないのか」
「僕は三千代さんを愛してゐる」
「他《ひと》の妻《さい》を愛する権利が君にあるか」
「仕方がない。三千代さんは公然君の所有だ。けれども物件ぢやない人間だから、心《こゝろ》迄所有する事は誰にも出来ない。本人以外にどんなものが出て来《き》たつて、愛情の増減や方向を命令する訳には行かない。夫《おつと》の権利は其所《そこ》迄は届《とゞ》きやしない。だから細君の愛を他《ほか》へ移さない様にするのが、却つて夫《おつと》の義務だらう」
「よし僕が君の期待する通り三千代を愛してゐなかつた事が事実としても」と平岡は強いて己《おのれ》を抑《おさ》える様に云つた。拳《こぶし》を握つてゐた。代助は相手の言葉の尽《つ》きるのを待つた。
「君は三年前の事を覚えてゐるだらう」と平岡は又句を更《か》へた。
「三年前は君が三千代さんと結婚した時だ」
「さうだ。其|時《とき》の記憶が君の頭《あたま》の中《なか》に残つてゐるか」
代助の頭《あたま》は急に三年前に飛《と》び返《かへ》つた。当時の記憶が、闇《やみ》を回《めぐ》る松明《たいまつ》の如く輝《かゞや》いた。
「三千代を僕に周旋しやうと云ひ出したものは君だ」
「貰《もら》いたいと云ふ意志を僕に打ち明けたものは君だ」
「それは僕だつて忘れやしない。今に至る迄君の厚意を感謝してゐる」
平岡は斯う云つて、しばらく冥想してゐた。
「二人《ふたり》で、夜《よる》上野《うへの》を抜《ぬ》けて谷中《やなか》へ下《お》りる時だつた。雨上《あめあが》りで谷中《やなか》の下《した》は道《みち》が悪《わる》かつた。博物館の前から話しつゞけて、あの橋《はし》の所迄|来《き》た時、君は僕の為《ため》に泣いて呉れた」
代助は黙然としてゐた。
「僕は其時程朋友を難有いと思つた事はない。嬉《うれ》しくつて其晩は少しも寐《ね》られなかつた。月のある晩《ばん》だつたので、月の消える迄起きてゐた」
「僕もあの時は愉快だつた」と代助が夢の様に云つた。それを平岡は打ち切る勢で遮《さへぎ》つた。――
「君は何だつて、あの時僕の為《ため》に泣いて呉れたのだ。なんだつて、僕の為《ため》に三千代を周旋しやうと盟《ちか》つたのだ。今日《こんにち》の様な事を引き起す位なら、何故《なぜ》あの時、ふんと云つたなり放《ほう》つて置いて呉れなかつたのだ。僕は君から是程深刻な復讐《かたき》を取られる程、君に向つて悪い事をした覚《おぼえ》がないぢやないか」
平岡は声を顫《ふる》はした。代助の蒼《あを》い額に汗《あせ》の珠《たま》が溜《たま》つた。さうして訴たへる如くに云つた。
「平岡、僕は君より前から三千代さんを愛してゐたのだよ」
平岡は茫然として、代助の苦痛の色を眺めた。
「其時の僕は、今の僕でなかつた。君から話を聞いた時、僕の未来を犠牲にしても、君の望《のぞ》みを叶《かな》へるのが、友達の本分だと思つた。それが悪《わる》かつた。今位|頭《あたま》が熟してゐれば、まだ考へ様があつたのだが、惜しい事に若《わか》かつたものだから、余りに自然を軽蔑し過《す》ぎた。僕はあの時の事を思つては、非常な後悔の念に襲はれてゐる。自分の為《ため》ばかりぢやない。実際君の為《ため》に後悔してゐる。僕が君に対して真に済まないと思ふのは、今度の事件より寧ろあの時僕がなまじいに遣《や》り遂《と》げた義侠心だ。君、どうぞ勘弁して呉れ。僕は此通り自然に復讐《かたき》を取られて、君の前に手を突いて詫《あや》まつてゐる」
代助は涙《なみだ》を膝《ひざ》の上《うへ》に零《こぼ》した。平岡の眼鏡《めがね》が曇つた。
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