2008年11月11日火曜日

十六の八

 平岡の話は先刻《さつき》から深い感動を代助に与へてゐたが、突然此思はざる問《とひ》に来《き》た時《とき》、代助はぐつと詰《つま》つた。平岡の問は実に意表に、無邪気に、代助の胸《むね》に応《こた》へた。彼《かれ》は何時《いつ》になく少《すこ》し赤面《せきめん》して俯向《うつむ》いた。然し再《ふたゝび》顔《かほ》を上《あ》げた時は、平生の通り静かな悪《わる》びれない態度を回復してゐた。
「三千代さんの君《きみ》に詫《あや》まる事と、僕の君に話したい事とは、恐らく大いなる関係があるだらう。或は同《おんな》じ事かも知れない。僕は何《ど》うしても、それを君に話さなければならない。話す義務があると思ふから話《はな》すんだから、今日迄の友誼に免《めん》じて、快《こゝろ》よく僕に僕の義務を果《はた》さして呉れ給へ」
「何だい。改《あら》たまつて」と平岡は始めて眉を正《たゞ》した。
「いや前置をすると言訳らしくなつて不可《いけ》ないから、僕も成る可くなら卒直に云つて仕舞ひたいのだが、少し重大な事件だし、夫《それ》に習慣に反した嫌《きらひ》もあるので、若し中途で君に激されて仕舞ふと、甚だ困るから、是非仕舞迄君に聞《き》いて貰ひたいと思つて」
「まあ何だい。其|話《はなし》と云ふのは」
 好奇心と共に平岡の顔《かほ》が益|真面目《まじめ》になつた。
「其代り、みんな話《はな》した後《あと》で、僕は何《ど》んな事を君から云はれても、矢張り大人しく仕舞迄聞く積だ」
 平岡は何にも云はなかつた。たゞ眼鏡《めがね》の奥から大きな眼《め》を代助の上《うへ》に据ゑた。外《そと》はぎら/\する日が照《て》り付けて、椽側迄|射返《いかへ》したが、二人《ふたり》は殆んど暑さを度外に置いた。
 代助は一段声を潜《ひそ》めた。さうして、平岡夫婦が東京へ来《き》てから以来、自分と三千代との関係が何《ど》んな変化を受けて、今日に至つたかを、詳しく語り出《だ》した。平岡は堅《かた》く唇《くちびる》を結《むす》んで代助の一語一句に耳《みゝ》を傾けた。代助は凡てを語るに約一時間余を費やした。其間に平岡から四遍程極めて単簡な質問を受けた。
「ざつと斯《か》う云ふ経過だ」と説明の結末を付《つ》けた時、平岡はたゞ唸《うな》る様に深《ふか》い溜息《ためいき》を以て代助に答へた。代助は非常に酷《つら》かつた。
「君の立場《たちば》から見れば、僕は君を裏切りした様に当る。怪《け》しからん友達《ともだち》だと思ふだらう。左様《さう》思れても一言《いちごん》もない。済《す》まない事になつた」
「すると君は自分のした事を悪《わる》いと思つてるんだね」
「無論」
「悪《わる》いと思ひながら今日《こんにち》迄歩を進めて来《き》たんだね」と平岡は重ねて聞《き》いた。語気は前よりも稍切迫してゐた。
「左様《さう》だ。だから、此事《このこと》に対して、君の僕等に与へやうとする制裁は潔よく受ける覚悟だ。今のはたゞ事実を其儘に話した丈で、君の処分の材料にする考だ」
 平岡は答へなかつた。しばらくしてから、代助の前へ顔を寄せて云つた。
「僕の毀損された名誉が、回復出来る様な手段が、世の中《なか》にあり得ると、君は思つてゐるのか」
 今度は代助の方が答へなかつた。
「法律や社会の制裁は僕には何にもならない」と平岡は又云つた。
「すると君は当事者《とうじしや》丈のうちで、名誉を回復する手段があるかと聞くんだね」
「左様《さう》さ」
「三千代さんの心機を一転して、君《きみ》を元《もと》よりも倍以上に愛させる様にして、其上僕を蛇蝎の様に悪《にく》ませさへすれば幾分か償《つぐなひ》にはなる」
「夫《それ》が君の手際で出来るかい」
「出来ない」と代助は云ひ切つた。
「すると君は悪《わる》いと思つた事を今日迄発展さして置いて、猶其|悪《わる》いと思ふ方針によつて、極端押して行かうとするのぢやないか」
「矛盾かも知れない。然し夫《それ》は世間の掟《おきて》と定めてある夫婦関係と、自然の事実として成り上《あ》がつた夫婦関係とが一致しなかつたと云ふ矛盾なのだから仕方がない。僕は世間の掟として、三千代さんの夫《おつと》たる君に詫《あや》まる。然し僕の行為其物に対しては矛盾も何も犯してゐない積だ」

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