2008年11月12日水曜日

十六の六

 寐《ね》る前《まへ》に門野《かどの》が夜中投函から手紙を一本|出《だ》して来《き》た。代助は暗い中《うち》でそれを受取《うけと》つた儘、別《べつ》に見様ともしなかつた。門野《かどの》は、
「御宅《おたく》からの様です。灯火《あかり》を持《も》つて来《き》ませうか」と促《うな》がす如くに注意した。
 代助は始めて洋燈《ランプ》を書斎に入れさして、其下《そのした》で、状袋の封を切《き》つた。手紙は梅子から自分に宛《あ》てた可なり長いものであつた。――
「此間から奥さんの事で貴方《あなた》も嘸《さぞ》御迷惑なすつたらう。此方《こつち》でも御父《おとう》様始め兄《にい》さんや、私《わたくし》は随分心配をしました。けれども其甲斐もなく先達て御|出《いで》の時《とき》、とう/\御父《おとう》さんに断然御|断《ことわ》りなすつた御様子、甚だ残念ながら、今では仕方がないと諦《あき》らめてゐます。けれども其節御父様は、もう御前の事は構はないから、其積でゐろと御怒りなされた由、後《あと》で承りました。其|後《のち》あなたが御出《おいで》にならないのも、全く其|為《ため》ぢやなからうかと思つてゐます。例月のものを上《あ》げる日《ひ》には何《ど》うかとも思ひましたが、矢張り御|出《いで》にならないので、心配してゐます。御父さんは打遣《うちや》つて置けと仰います。兄さんは例の通り呑気で、困つたら其|内《うち》来《く》るだらう。其時|親爺《おやぢ》によく詫《あやま》らせるが可《い》い。もし来《こ》ない様だつたら、おれの方から行つてよく異見してやると云つてゐます。けれども、結婚の事は三人とももう断念してゐるんですから、其点では御迷惑になる様な事はありますまい。尤も御父さんは未《ま》だ怒《おこ》つて御|出《いで》の様子です。私の考では当分|昔《むかし》の通りになる事は、六づかしいと思ひます。それを考へると、貴方《あなた》が入らつしやらない方が却つて貴方《あなた》の為《ため》に宜《い》いかも知れません。たゞ心配になるのは月々|上《あ》げる御|金《かね》の事です。貴方《あなた》の事だから、さう急に自分で御|金《かね》を取る気遣はなからうと思ふと、差し当り御困りになるのが眼の前に見える様で、御気の毒で堪《たま》りません。で、私の取計で例月分を送つて上《あ》げるから、御受取の上は是で来月迄持ち応《こた》へて入らつしやい。其|内《うち》には御父さんの御機嫌も直《なほ》るでせう。又|兄《にい》さんからも、さう云つて頂く積です。私《わたくし》も好《い》い折《をり》があれば、御|詫《わび》をして上《あ》げます。それ迄は今迄通り遠慮して入らつしやる方が宜《よ》う御座います。……」
 まだ後《あと》が大分あつたが、女の事だから、大抵は重複に過ぎなかつた。代助は中《なか》に這入つてゐた小切手を引き抜《ぬ》いて、手紙丈をもう一遍よく読み直した上《うへ》、丁寧に元の如くに巻き収めて、無言の感謝を改めて嫂《あによめ》に致した。梅子よりと書いた字は寧ろ拙であつた。手紙の体の言文一致なのは、かねて代助の勧めた通りを用ひたのであつた。
 代助は洋燈《ランプ》の前にある封筒を、猶つくづくと眺《なが》めた。古《ふる》い寿《じゆ》命が又一ヶ月|延《の》びた。晩《おそ》かれ早かれ、自己を新たにする必要のある代助には、嫂《あによめ》の志は難有いにもせよ、却つて毒になる許《ばかり》であつた。たゞ平岡と事を決する前は、麺麭《パン》の為《ため》に働らく事を肯《うけが》はぬ心を持つてゐたから、嫂《あによめ》の贈物《おくりもの》が、此際《このさい》糧食としてことに彼には貴《たつ》とかつた。
 其晩も蚊帳へ這入《はい》る前にふつと、洋燈《ランプ》を消《け》した。雨戸《あまど》は門野《かどの》が立《た》てに来《き》たから、故障も云はずに、其|儘《まゝ》にして置いた。硝子戸《がらすど》だから、戸越《とご》しにも空《そら》は見えた。たゞ昨夕《ゆふべ》より暗《くら》かつた。曇《くも》つたのかと思つて、わざ/\椽側迄|出《で》て、透《す》かす様にして軒《のき》を仰ぐと、光《ひか》るものが筋《すぢ》を引いて斜《なゝ》めに空《そら》を流れた。代助は又|蚊帳《かや》を捲《まく》つて這入つた。寐付《ねつ》かれないので団扇をはたはた云はせた。
 家《いへ》の事は左のみ気に掛《か》からなかつた。職業もなるが儘になれと度胸を据ゑた。たゞ三千代の病気と、其源因と其結果が、ひどく代助の頭《あたま》を悩《なや》ました。それから平岡との会見の様子も、様々《さま/″\》に想像して見た。それも一方《ひとかた》ならず彼《かれ》の脳髄を刺激した。平岡は明日《あした》の朝九時|頃《ごろ》あんまり暑くならないうちに来《く》るといふ伝言であつた。代助は固より、平岡に向つて何《ど》う切り出《だ》さう抔と形式的の文句を考へる男《をとこ》ではなかつた。話す事は始めから極《きま》つてゐて、話す順序は其時の模《も》様次第だから、決して心配にはならなかつたが、たゞ成る可く穏かに自分の思ふ事が向ふに徹する様にしたかつた。それで過度の興奮を忌んで、一夜の安静を切に冀つた。成るべく熟睡《じゆくすい》したいと心掛けて瞼《まぶた》を合せたが、生憎眼が冴えて昨夕《ゆふべ》よりは却つて寐《ね》苦しかつた。其|内《うち》夏の夜がぽうと白《しら》み渡《わた》つて来《き》た。代助は堪《たま》りかねて跳ね起きた。跣足《はだし》で庭先へ飛び下りて冷たい露《つゆ》を存分に踏んだ。夫から又椽側の籐椅子に倚つて、日の出《で》を待つてゐるうちに、うと/\した。

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